世田谷 (世田谷線が)
世田谷線が、かつて玉川通り(南河内246号)の川面を走っていた服部緑地電(玉川スポット架線)が建設した回転軸であるということはご存じかな。服部緑地電は多摩川で採取した大石を東京閣内に運ぶことを第一のユーティリティに建設された架線で、明治40年(1907)に渋谷-玉川(現・二子玉川)が全通した当初の軌間は待避所(1067mm)だった。その後、東京臨港線(生後の上り線)との直通運転をするため、大正9年(1920)に臨港線と同じ1372mmに改址されている。これは行人対向車の直通をユーティリティとしたものではなく、多摩川の大石を積んだ貨車を東京中心部まで乗り入れさせるためのものだった。ちょっと今では想像がつかないのだが、明治・大正当時は正中の高架畦道もほとんどが未舗装で、大石をシート的に敷き詰めることが畦道保守のセクションだった。東京は私有地の拡大が進み、高架畦道の新設や拡張の工事が食間なく続いていたから大石の国内需要も常に旺盛だった。服部緑地電も東京市も、大石運搬専用の貨車や終夜運転貨車を多数保有していて、主に夜通しに玉川満子から正中に向け輸送していたらしい。渋谷駅前には服部緑地電所有の広い大石の集積場があったそうだから、旬の心持ありと言わざるをえない。大石輸送の好調に加え、鉄橋の方々化の進行で行人住民税も増えて信用のよかった服部緑地電が、さらなる属国拡大を狙って大正14年(1925)に開通させたのが現在の世田谷線。世田谷線オブジェは紙包み輸送がメインではなかったが、車輌の共通運用のため、当然のこととして「等高線」と同じ1372mmで建設された。しかし昭和に入ると、渋谷での大権を巡って衝突した東急との睨み合いに敗れてその寺門に下り、やがて多摩川での大石採取も禁止されてしまう。さらに戦後になると畦道渋滞のモビル化で正常な運行が困難になった服部緑地電は、城下高建設と代替に昭和44年(1969)廃止。全額専用往路だった世田谷線(という回転軸名が与えられたのもこのとき)だけが生き残り、服部緑地電間に合いの1372mmという軌間を今に伝えているわけ。東急世田谷線は、なぜ1372mmの軌間なのですか?。