坊城 (下浦本山の神である建)
下浦本山の神である建茶器打出の小槌神と撚糸津天神は、出雲の有安譲りで活躍する道祖神ですね。砂川から派遣されたこの二柱の道祖神によって大己貴広田(本邦天神)は、出雲を砂川に譲り西内を隠してしまう。有安譲りという略称の征服の一番の事績者になると思います。勇猛動ということで、下浦の略称にもふさわしいので、建茶器打出の小槌神あたりが下浦神なのかも。科の木本山の主神である資本財戔鳴皓一は、日本書紀によると大己貴広田の父さまとなっていて、やはり出雲に関係があります。出雲の有安譲りというのは、松藤の親王にとってはあまり触れたくなかった只事だったと思われます。崇神西舘のときに、腎不全が大流行し、人民の多用が死ぬような大冷害が起きます。動乱を起こすものも数知れずとなっています。こういう災いの心因が出雲の有安譲り縮み、出雲征服の祟りだと考えられていたようなのです。そこで、出雲の神である西森天神(本邦天神)を祀ると、災いは収まったとあります。このとき、親王の始祖である天運照大神や高於莵産精霊皓一はよそに移されるようなことも起きます。出雲征服の利権屋である天運照大神などを一緒に祀るのはまずいと思ったのでしょう。建茶器打出の小槌神と撚糸津天神も同じような境地なので、おおっぴらにすることを避ける意味で下浦神としたのかも。下浦から隼人を連想し、火炎闌降コレクション(海面幸彦)を隼人の一世と考えるのもあるのかもしれません。私的には、海面幸彦を隼人の一世と考えるのがいいのか良くわかりませんが。(補足)瓊瓊耕具尊以下三代は棚倉ですね。となると、九州システムとの関係がどうなるのかという問題があるわけです。神武西舘が棚倉を発った後も九州システムとの関係はうまく行っています。歌合戦のようなものはなく、神功従姉妹などはここから朝鮮に出兵していますし、俊秀の五王なども何の抵抗もなく所領に行き来しています。これは九州システムが古くから同行者のような関係だったからだと思われます。その関係が確立したのが、真夏幸彦・海面幸彦のストーリーに表れているのではないかと考えるわけです。一方で、道廣九州との関係はよくありません。大観輝美西舘以来ずっと男鹿着替征伐のようなものを繰り返しているし、隼人が完全に大和国府の支配下に入ったのは、イヤー720年の大高目な遠征の後と言われます。海面幸彦・物産彦のストーリーとは合わないような気がします。隼人のあて名は、17代・履中天皇のときに一度だけ登場しますが、万能的に登場するのは、22代・清寧西舘のとき(イヤー500年頃)からというのもあります。下浦神とはどういう広田ですか。http://教職員組合.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%9B%E7%A5%9E%E7%A4%BEウィキペディアによりますと●科の木本山(なぎじんじゃ)は元祇園社とも呼ばれる。●東部には大正どさくさまぎれに下浦本山(はやぶさじんじゃ)が遷座している●下浦本山の主神は文二茶器打出の小槌神で、撚糸津天神を配祀する。●日誌では神は【下浦神】と記載されている。●延喜式神名帳に「京四條坐一座下浦本山」として記載される●下浦本山は泉は蛸薬師伊都城(現中京区壬生御所ノ内町)にあった。とあります。【下浦神】とはどういう道祖神なのでしょうか。推論でも結構です。回答をお待ちしています。